本日、娘の3歳児検診に行ってきました。
38歳になる母親です。
検診はいくつかの項目がありますが、横浜市の私の地域では、はじめに子供自身の受け応えをチェックします。
「お名前は?」「二つのマルのどちらが大きい?」
印象的だったのは、一番始めの質問。シートの二つの丸のどちらが大きいか、何度も答えられなかったったこと。
まだ慣れずニヤニヤして小声の娘は、「二つのマルのどちらが大きい?」という質問に、「これ…」と、自分の頭を指したのです。やり直す保健師さんに、次は自分の目玉を指差す。次は何故か足元。
保留にし、違う大きなシートに進んで、7個ほどのイラストから、食べ物を選んだり、乗り物を選んだり。
その後に、また小さなシートで二つの丸を比べたところ、ちゃんと大きな丸を指差し、保健師さんもホッとする。
私は内心、ホッとするどころか嬉しくてびっくりしていました。
だって、「どちらの丸が大きいか」という質問に対して、小さなシートではなくて、指刺せる全体の中を対象として捉える、認知の広さ。
柔軟さ。
そもそも娘は、質問する保健師さんの手元ではなくて、優しそうなその顔をずっとにこにこと見ていた。手元の小さなシートのどちらの…というボディランゲージは控えめだったため、保健師さんの表情を一番の確認事項として見ていたのです。
人の表情って凄く情報量がある。だから見てしまうし、面白い。情報が流動性を持つことに対して不得手な特性をもつ人、自閉症スペクトラム指数が高い場合にはそれがきついと感じる対象になるけれど、表情から多量の情報を読み取る能力は需要が高いため、コミュニケーション能力は有用性があります。
他人からの刺激を求め、初対面の子供に積極的に関わろうとする娘。
言葉は、同年齢の女の子の饒舌さに比べたら全く早くない、それなのにすごく、大切なところが成長していることを感じます。
元々興味深々だった、他の人と遊ぶということが身についたのは、保育園に通い出した2歳半の頃からです。「がっこう」が大好きで、「がっこう」のない時も他の子供に近付いて一緒に遊ぼうとします。
私に似ず、身体機能にも恵まれているので、少し年上の男の子との追っかけっこ遊びが楽しいようです。
そんな娘ですが、スマホにハマっていた時期がありました。
それはなんと1歳の時期です。
0歳8ヶ月の時に専用のスマホを買い与え、1歳児の頃はよくスマホのゲームをしたり、2歳になってからはLINEビデオ通話をおじいちゃんおばあちゃんと楽しんでいました。
その頃の状況を、こちらに投稿しました。
そして、その際、「親が何をすると依存し、何をすると依存しないのか」、脳内麻薬物質の働きから仮説をたて、実行しました。
その時の娘は保育園にも入れておらず、今後どのように育っていくのか注意深く見守らなければならないと思っていました。
軽度のアトピー、そして睡眠時にうなされて覚醒しやすい傾向があります。睡眠時の覚醒については、どういった内容でうなされるかというと、「もっとおじいちゃんの家に居たかった!」「もっとおばあちゃんと遊びかたった!」という内容です。
彼女の中で「人との関わりが何よりも大切」なのです。
無事、3歳児健診で、心身の健康な成長を確認することができました。
先述の、「子供と、ゲームを含むディスプレイコンテンツとどう付き合って行くか」という課題について、私自身がゲームを長時間プレイした経験や不登校になった経験、大手ゲーム会社コールセンターに勤めた3年を含む社会経験や、デバッグ専門の会社に勤めた夫の話などを総動員して考察しました。
親である私たちがどう対応するかで、娘の人生を大きく左右することが、痛いほどわかるからです。
3歳児検診の結果だけでなく、娘の成長、特に人やコミュニケーションへの活発さは想像を超え、私達のその考察は間違ってはいないし良い方向に行っている、と感じています。
しかしながら、自身の経験や集めた情報だけを基にする考察には限界があります。
一番大きい差分は、私が夢中になったゲームの形態の古さです。
ゲームの値段が決まっていた
私が高校時代を過ごしたのはRPG、ファイナルファンタジーの世界でした。
まず、数万のハードをどうにか買う、もしくは買ってもらう。それから、5000円以上のゲームソフトを買う、もしくは買ってもらう。
あとは、ゲームに没頭します。
ファイナルファンタジー7をクリアするための数日、高校に出席できていたか覚えていません。出席できていなくても、徹夜に近い睡眠時間で、全く健康ではなかったでしょう。
それまでも、5や6には没頭しましたが、発売からしばらく経ってからのプレイであったためセーブがかかっていました。しかし、7発売の1997年は、インターネットができるようになってからまもない時期で、2ちゃんねるなども存在するもっと前、niftyサーブという情報交換場所でリアルタイムに猛者の情報を追うことができたのも刺激的でした。
インターネットとゲームと思春期を絡めて、最も危なかった時期かなと思います。
しかし同時に、夢を育てる大切な時期でもありました。
同じく、ファイナルファンタジーを愛した友人たちと絵を描き同人誌を作ったり、沢山の話をしました。
将来はスクエアで働きたいね、と、友人と語りました。私は大学受験と同時に、CGの専門学校も受験しました。結局、専門学校には行かず、東京農業大学の短期大学へ進学しました。しかし、ずっと胸にコンプレックスが存在します。クリエイティブに人生を賭けなかったコンプレックスが。
それだけではありません。ファイナルファンタジーシリーズは、私の感性に鮮烈な世界を造ったのです。
その時期に出逢った漫画やアニメや音楽は、深く私の世界に刺さっているけれど、RPGというものはそれこそ、ビジュアル、音楽、物語を複合した世界そのものです。
ゴミゴミした都内、すぐ側を環状8号線が通る排気ガスに包まれた校舎に通う私たちに、「チョコボの住む大森林」を、与えてくれたのです。
環境破壊が話題になっている時代、大人とは学生であった私たちから美しい自然と遊び場を奪った者たちだった中で、ゲームを造った大人たちだけが私達に場所を与えてくれたのです。
ゲーム依存から始まるコミュニケーション依存
それから高校を卒業し、「ファイナルファンタジー11」が発売され、私達が初めてオンラインでリアルタイムに仲間と戦闘ができるようになるまで、5年程度かかります。
それまでやはり、ゲームは「買うもの」もしくは、アーケードで「硬貨を入れるもの」でした。
アーケードゲームの対戦は、RPGの他にハマったゲームです。
知らない人に「乱入」することから始まった。とても刺激的です。
ゲームセンターにはノートがあって、絵や文によるコミュニケーションができた。もう一つの青春でした。
ゲームセンターでの対戦コミュニケーションは、今思えば思春期に多くみられる「コミュニケーション依存」でした。
ゲームセンターに足繁く通う美麗な女子高生だった私は親に心配され、ついには友人の母親と二人でのゲーセン奇襲をかけられてしまったのは苦い思い出です。
コミュニケーション依存の終わりとゲーム会社内での日々
やがて、私の対戦コミュニケーション依存もゲーム依存も、恋人という刺激の前に霞んでゆきました。
短大を卒業すると、まずはじめに大手ゲーム会社Sのコールセンターの一員となりました。
憧れのゲームハード会社で、製作者や社員と時に連携してする仕事は、更に刺激が詰まっていました。
ゲームを提供する側の生きた様子を、常に目の端に捉えていることで、完全に価値観は転換しました。
嫌な言い方になるかもしれませんが、純粋に受け手としてゲームを楽しめなくなりました。
創るほうが楽しいだろうなという想像が、とてもリアルになったのです。
同時に、初めてのオフィスワークというものに、仕事というものにゲーム性を感じるようになったのです。それはとても重要な、楽しいことでした。
それでも魅力を感じて購入したゲーム、SIRENやSOCOMというゲームは格別です。
SIRENは感想や攻略サイトを作りましたし、SOCOMはオンラインでも遊べたので、クラン、言うところのグループを作って活動しました。
それが、私の体験したゲームの世界です。
だから、RPGや格闘ゲームにハマる気持ちはよくわかります。
私がそうであったように、サイトを作ったりグループを作ったり、なんらかのクロス展開するほどであれば、人生を潤すと私は判断できます。
ただ、近年のゲームはその入手方法からまるで違う。
「課金」
課金に対して、どう対応するのが正しいのか、より複雑に考えなければいけないと思っていました。
これまでは、ゲームソフトの値段が決まっていました。
なんとなく、購入した価値、7千円前後の値段よりも楽しむぞ!というやる気が、子供ながらにありました。
しかし今は大変です。
「どこまで課金するか」
ゲームの価値を、プレイヤーが決めなければならない。
すごく難しいのではないか。
私は、ゲームに関する沢山の経験を経て、「どハマりする」「重課金する」という精神状況にはならなくなりました。
しかし、娘の時代はどうでしょう。
多感な時期から、刺激的なオンラインコミュニケーションが織り込まれ、しかもそれが少額ずつ課金できる。
もし私ならどうしたでしょうか。
自分の同年代の状況を考えたら、危なかったのではないかと思います。
前回、至った結論に基づいて、「取り上げる」ことはしないでしょう。それは、欲する気持ちを増大させることに他ならないからです。
「あなたの脳細胞が刺激を受けて、脳内麻薬が出ている。それに酔うことは、脳内麻薬を運搬する限りある細胞を、消費してしまっている」
そう、説明しようとは思っています。
だけど、実際にはどうなもでしょう。
実際に私はソーシャルゲームと呼ばれるものに深く没頭した経験がないので、リアル感が少ない。
さて、どうしよう。
そう思ったところに、出会った良い本があります。
次回は、この本の内容について触れて行きたいと思います。